2012年8月14日火曜日

たからくじ1等当たりました


たからくじ1等当たりました

と書けば
多くの人にぼくのブログを見てもらえるかなと思ったのですが
どうでしょうか
ちょっと釣ってみました
ごめんなさい
先日のサマージャンボはお金がなくて買えませんでした
今のぼくはダメです
たからくじを買うお金があったら車のオイル交換に使います

でも当たったことは嘘じゃありません
過去の話ではありますが本当に1等当ててます
ほい 証拠画像



スクラッチくじ1等当選賞金50万円
ビギナーズラックだった
ぼくが神の存在を信じられた唯一の瞬間
嬉しさのあまり記念にスキャンしてしまいました
もう7年も昔になるのか
みずほ銀行で1時間近くも待たされて若い銀行員たちの見世物にされたことは
今でも忘れられない思い出になっている
おもしろい経験をさせてもらいました

しかし50万円というのは微妙な金額だった
当時ぼくは自営業をしていた
なにかと出費が多く請求書の山の前で四苦八苦していた頃だ
取引先への支払いや光熱費やローン返済に全部使ってしまった
気がついたらスッカラカンになっていた
だから全然儲けた気がしない
当てても当たらなくても人生変わらない程度の金額
ぼくはその後事業に失敗して廃業してひきこもり生活者になるのだから
今思えば何の役にも立たないお金だった

客観的に見たら救いようのない不幸者のくせに
人生変わらない程度に高額賞金を当てている自分
ぼくの人生運がいいのか悪いのかわからなくなる
親戚のじいさんは50年間も欠かさずたからくじを購入し続けているけれど
最高当選金額はたった1万円だとぼやいていた
もしかしたらぼくは強運の持ち主なのかなと少しだけ疑ってみたりする
ぼくは選ばれた人間なのだろうか??なんてね
ぼくが生きることをやめられない
死ぬに死ねない
人生をあきらめきれない理由のひとつになっている
そう
ぼくはまだあきらめていない
人生思い掛けない所で光明が射すこともあると確信している
そう思えばこれからも生きていける
まだまだ生きなきゃ
当選することで
お金よりも心の財産を得たことの方が大きいのかな

2 件のコメント:

  1. 不破さん、こんにちわ。あなたのブログを拝見しています。私はあなたより少し年上で、配達のアルバイトをしている男です。田舎で妻と二人共働きの暮らし、質素な生活をしています。ぶっちゃけ、世人がよく口にする、世の為人の為に働く者としての誇り云々とは関係のない人間です。もっぱら自助自活に専念しています。でもいわゆるワーキングプアのように労働ざんまいの日々は御免です。自分は共同作業が苦手で個人作業をということで新聞とか誌紙の配達をしています。テレビ番組のモニターもしています。労働は1日6時間で十分で、生活水準は低くても読書とか趣味の時間の方を大切にしたいと思っている中年男です(笑)。

    (※以下、特定の宗教勧誘ではないのでご安心下さい。)

    「私は知った、その生涯の間、楽しんで自ら幸福を造り出すこと、これ以外に人の幸せはない、と。また、すべての人が食べて飲み、そのあらゆる労苦に幸せを見てとること、これこそが創造主なる神からの贈り物である、と。」(旧約聖書コヘレト書3:12)
    宝くじのお話、読みました。何らかの御利益が無いと神さまを信じられないのは人間のホンネですよね。でも御利益といっても意味が広いですね。自分にとっての最大の御利益は、この世で金持ちになることでもあの世で天国に行くことでもなくて、結局、意味付けです。自分の場合はこのままこうして地味に人生を終るのでしょうが、そんな無きに等しい人生でも、さすがに死に臨んでは実にくだらん人生だったなあと後悔したくはないわけです。ただ、運が悪かった、努力も実力も足りんかった、無意味で無価値な虚しい人生だった・・・という自業自得の悔恨だけで消え失せるのは最悪なので、少しでも自分を、その人生を肯定して死にたい、いかに世間的にはつまらなん人生でも、宇宙万物の創造主の意思によって支配された世界の中で、それなりの意味をもって生を享け、存在し、そして死んでゆくのだと思いたいのです。自分の生涯が全く偶然で無意味だとするよりかは慰めになり、救いになります。日常的にはささやかな喜びを創造主なる神の恵みと感謝し、不幸な出来事については何ものにも原因を求めず、ただ慰めと希望とを求める・・・、それ以上を願ってもリアリティーないし、ますます宗教臭く胡散臭くなりますね。特に因果応報にとらわれていては毒になります。でも、人生の意味付け程度のあっさりとした観念的な信心ならけっして毒にはなりません。むしろ一服の清涼剤になり、創造主との関係が楽しく感じられますよ。死にたくなるほど絶望的になる時は、この世の価値観にとらわれてしまっている場合があるので、その価値観を相対化する視座が必要になります。日本の八百万の神ではそれは無理です。神社の神々がしょせん自然界に内在する相対的なもの、偶像だからです。その自然界を超越する絶対者でないと、人間が構築したこの世の価値秩序を相対化することはできません。我々の精神を束縛している現世価値のバベルの塔を脱構築するためには、一神教的創造主信仰が必要です。カント的に言えば要請(公準化)されるのです。必要は発明の母でもあり、また信仰の母でもあります。だからといって特定の宗教に入る必要など全くありません。私は怪しげな布教者としてこのコメントを投稿しているわけではありません。信じて下さい。ユダヤ教にもイスラム教にもキリスト教にも関係なくてよいのです。宗教は結局、カネを取ります。職業宗教家がいるからです。そういうのとは関係なしに、個人の中で、いかなる組織からも自由な独自の信仰が成り立ちます。マイ・ゴッドを持つということは精神衛生的には一つの方法として良いアイデアになる場合があります。縁あらば、導きあらば、人は誰でもいつでも創造主との活きた関係に入れます。そのおもな媒体は旧約聖書です。旧約聖書には基本的に天国と地獄といったあの世へのこだわりはありません。死ねば誰もが陰府にゆくとされています。それは地獄ではなく、本来、中立の場所です。天国に入れること、来世御利益を目的とした信仰はつまらないものです。楽しくありません。商品にすることを目的に小説を書いたり絵を描いても楽しくないのと同様です。自由な創造的行為だからこそ楽しいわけで信仰もそうです。死後の行方など創造主なる神におまかせし、ただ、こうして生きている今を大切に暮らす事、日々のささやかな幸せに感謝して、希望を持ち続けること、そうすれば悲観に陥ることはないです。これが私にとっての自殺防止の最大の道でもあります。人はいづれどうせ死ぬのですから、それまでは、仏教的に言えばお迎えが来るまでは、この世の甘味も苦味も味わえばよいと思います。我々の生殺与奪の権を握っているのは人間など相対的な事物ではなく、この世を超えた唯一絶対者であると思えば少しでも気が楽になるでしょう。
    では、また・・・。

    「私は裸で母の胎を出た、裸でかしこに帰ろう。ヤハウェが与え、ヤハウェが取り去りたもう、ヤハウェの名はほめたたえられよ。」(旧約聖書ヨブ記1:21)※ヤハウェというのは創造主なる神の名前です。

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  2. こへれとさんはじめまして
    じっくりと読まさせていただきました

    実はぼくの叔母は敬虔なクリスチャンなのです
    まだ5歳の頃でしょうか
    叔母に連れられて何度か教会に行った思い出があります
    叔母の部屋は貼り紙だらけでした
    聖書の言葉を抜粋して書かれた紙が壁全面に貼ってありました
    裕福でなかった叔母はアルバイトをしながら地道に信仰を続けていました
    そんな叔母を持っているからでしょうか
    こへれとさんのコメントをぼくは抵抗なく受け入れることができます
    こへれとさんのコメントを読んでいたら若く優しく生真面目な叔母の笑顔が浮かんできました
    そんな叔母も70歳になろうとしています

    ぼくが幼稚園の頃
    叔母は誕生日プレゼントに聖書を何冊もくれました
    幼稚園児に聖書は難解過ぎましたね(笑)
    あの聖書はどこかにいってしまいました
    ぼくは今強く生きるための答えが欲しいです
    40歳を過ぎた今こそ読みたいと思っているのですが

    こへれとさん
    人は信じるものがなくては生きていけないと聞きます
    歳と共に何かにすがりたいという気持ちが強くなりました
    最近のぼくは無性に神の教示を受けたくなることがあります
    てのひらとてのひらを合わせることが増えました
    希望の光の行方を神に聞きたくなります
    浴室で車中でベットの中で
    顔も名前もない「神様」のことを考えながらソッと手を合わせる
    気持ちが落ちつきます
    これが今のぼくの信仰なのです

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